実体なき仮想空間 インターネット
現代は、インターネットを使って誰もが気軽に発信できる時代になりました。
次から次へと溢れ出る情報が瞬時に世界中を駆け巡り、私たちはあたかも情報という海の中に暮らしているようです。いつでもどこでも欲しい情報にアクセスすることができ、一昔前では考えられなかったほど便利な世の中になりました。
同時に、私たちは実体とかけ離れた巨大なバーチャルな世界を創り出しました。
現在、世界で取り引きされるお金のうち、実際に物やサービスを提供することによって発生する実体経済の占める割合はわずか1%とも言われています。その他はすべて、株式や外国為替取引のような実体を伴わないコンピューター上でのやり取り(マネー経済)です。
2016年夏、国連WFP(世界食糧計画)は、大干ばつに襲われ深刻な食糧危機に直面しているアフリカ南部の国々へ来年4月まで食糧支援を行うため、5億3500万ドルの資金を集めることが急務であると発表しました。一方、世界の外国為替市場では、たったの1日で、実にその10000倍である5兆3000億ドルという金額が取り引きされています。お金がお金を生むマネーゲームの中で、現実からかけ離れた莫大な額のお金が日々動き続けており、それは欲望や熱狂、不安や恐れといった人間の想いによって変動します。そしてそのバーチャルな世界の動向によって、現実の私たちの生活が大きく翻弄されるという倒錯した状態が起きているのが、現代の経済です。
インターネットもまた、巨大なバーチャル空間です。誰もが気軽に発信できるようになった一方で、不確かな情報が瞬時に拡散し、憶測や興味本位のもとに次々と連鎖して、実体の伴わないところで情報が独り歩きする世界ができあがりました。それは人間の空想が創り出した云わば幻のような世界でありながら、現実の私たちの生活に大きな影響力を持ち、例えば悪意的な書き込みが瞬く間に広がって企業が業績不振に陥ったり、ネットいじめにあった子どもが自殺するというケースも発生しています。
情報の内容を吟味するのではなく、アクセス数やフェイスブックの「いいね」の数で良し悪しが判断され、正しいこと、真実であることよりも、耳触りの良い表面的なことがもてはやされるバーチャルな世界がどんどん膨らみ、いつしか人々はそれがバーチャルであることもわからなくなるほど、現実とバーチャルが交錯した世界に生きるようになりました。そうして実体と向き合うことのないまま社会に歪みが積み重なり、やがて真実がどこにあるのかも観えなくなっていったのです。
70億分の1の尺度
現代社会は、大変な差別と、欺瞞と、暴力に満ちています。かつての戦時中の武力を持って相手を攻撃するような目に見えてわかりやすい形での暴力は、少なくとも日本では見られなくなりました。けれども、一見何事もないかのように見える社会の奥に、戦時中よりもずっと巧妙に暴力が潜み、複雑化しているのが現代社会です。
世の中は大変な混乱の時を迎えています。世界は秩序を見失い、様々な立場の人がそれぞれの立ち位置から理想を語り、正しさを主張しています。自分が正しい、と思っている人々は、ある意味優秀な人々です。優秀な人々は、自らが社会をリードしているという自負心を持っています。しかし、そういった意識のもとにいる人々こそ、その優秀な自らがリードして創ってきた社会が、現代の混乱した社会であることを認識する必要があるのです。
多様性の星・地球には、多種多様な立場の人々が暮らしています。その中で何か特定のものを理想とすると、そこから外れたものを間違いだとするようになります。けれども、今あなたが判断をしているその尺度は、たくさんある中のたった一つの尺度なのです。
自然の仕組みに沿い、宇宙の法のままに生きる他の生命に対し、人間は世界を自らの独自の尺度で捉えるという、特別な能力を持っています。それは他の生命にはない、人間だけに与えられたものです。そして、地球上に70億人の人がいれば、そこには70億通りの尺度があります。そこで大切なのは、自らのオリジナルな尺度=個性を持ちながら、いかにその尺度に囚われずに世界全体を観ることができるか、ということです。
ところが、現代のように現実とバーチャルが錯綜し、語っていることと実際にやっていることにギャップがあっても成り立つ社会構造の中では、何も現実にはやらないまま自らの空想の中だけにある理想を語っていても、同じようにバーチャルに理想を追い求めている人々から支持を得ることができます。支持を得ることによって自分が正しいのだと思い込み、たった一つであるはずの自らの尺度を絶対とするようになっていくのです。
バーチャルな価値観をひっくり返す、現実の歩み
しかし、どのような理想を語ろうとも、それを実際に生きられる人間がそこにいなければ、決して現実にはなりません。
理想を語る人々に必要なことは、実際にその現場に立ち、様々な立場の人々と関わっていく中で自らの姿勢がどのような場面をもたらし、結果としてどのような場所ができるかを現実に体験することです。その時に、人は初めてバーチャルではない、自身の人間性の実態を思い知ることになります。それが、自らが語っていることの真実と出会う第一歩なのです。そうでなければ、何も現実化しないままに、バーチャルな評価を得たいがためだけの投げかけをし、現実の裏付けがないまま自らが正しいと思い込み、いつまでもバーチャルな世界で自らを主張し続けることになるのです。
バーチャルな理想に共鳴して生まれるつながりは、いっとき盛り上がりを見せたとしても、実体を伴わない情熱は必ず冷めて消えていくものです。多くの社会的ムーブメントが現れては消え、現れては消えていく中で、地に足の着いた歩みをする者たちだけが、それを現実の生活の中に表現することができるのです。
木の花ファミリーの創立からの歩みは、常に実践の歩みでした。人々が、日々の暮らしの中で実際に起きてくる出来事を通して、自らの本当の姿と向き合い、着実に歩み続けてきた結果、現代社会の行き詰まりに突破口を開く、確固たるモデルとしての生き方を提案する場ができました。それに対し、2013年頃より一部のインターネット上にて、木の花ファミリーを批判する動きが巻き起こりました。
木の花ファミリーは、人間がバーチャルな幻想の上に積み上げてきた価値観をすべてひっくり返し、本当の自分自身とゼロから向き合う場です。そこでは既存の評価も社会的地位も関係ありません。そういった囚われをすべて手放し、自らをフリーにしたところから、真実の歩みが始まるからです。
過剰なまでの情報が氾濫する現代社会では、実体の伴わないバーチャルな表現であっても、人の心をくすぐることができます。しかしそろそろ、そういった浮かれた世界がますます広がることをやめなければいけない段階に来ています。人々がそのような中に浸っている限り、現代社会の混乱が収まっていく流れは生まれてこないからです。そのことを理解し、一人ひとりが真実に基づいて自らを検証することを最優先とする生活を始めたのが、木の花ファミリーの歩みなのです。
けれども、自らを変化させ調和に向かうよりも、個人の評価や面目を保つことが大切な人々にとっては、自身の実態を突き付けられる木の花ファミリーの在り方は、反発や恐れ、逆恨みの対象となり、また、自らが成し得ないことを実践していることから嫉妬の対象ともなりました。
「木の花ファミリーで起きたこと」
そして、「木の花ファミリーで起きたこと」というサイトが立ち上がりました。同サイトは、「これから書くことの多くは、あくまでも可能性に過ぎません」との巧みな表現を用いながら、木の花ファミリーがいかに暴力的で危険なマインドコントロール集団であるかということを描き、さらなる被害の発生を防ぐためにサイトの立ち上げに至ったとしており、社会正義の側に立って悪を裁こうとする意図がうかがえます。そこでは、現実の木の花ファミリーがどのような所であるかということは検証の対象外であり、一方的に被害を受けたと訴える人々の証言が、説得力ある形でまとめられています。それは、深い意味での木の花ファミリーの実態とは、かけ離れたものです。
しかし、そういった訴えの奥にある真実が何であるのかを世の中に示していくことは、木の花ファミリーの生活の目的でもあります。そこで木の花ファミリーでは、同サイトを管理する「コミュニティの課題と可能性を考える会」に対し、真実を検証する場を持つことを幾度となく提案しましたが、同会が応ずることはなく、一方的な情報が掲載された同サイトが現在も公開され続けています。けれども、もしも本当に社会正義のもとに真実を示したいという意志があるのならば、このような矛盾ある形で表現し続けることに、自ら疑問を持つはずなのです。
同サイトのゴシップ的な内容は多くの人々の興味をそそり、同サイトを情報源として、実際に木の花ファミリーを訪れたことのない人々までもが木の花ファミリーへの批判をネット上で展開し始めました。そこに、ストレスが溜まっていたり、何かを攻撃することで自らが正義の側となってスッキリしたいというような感情を持つ人々が便乗し、ネット上でのバッシングがエスカレートしていきました。そして、真実の木の花ファミリーとはまったく違う異質な場が表現されることになっていったのです。
彼らにとって何の得にもならないことを、なぜそこまで熱心にバッシングするのかと言うと、社会正義の側に立っていることが原動力であるかのように彼ら自身は強調していますが、その精神の奥には、嫉妬や逆恨みといった感情があることが伺えます。しかしながら、自らの感情に飲み込まれている人は、そういった自分自身の状態を客観的に観ることができません。そして実体の伴わない、自らの感情が創り出したイメージをあたかも真実であるかのように語り、多くの人を巻き込んでいきます。そのような社会的詐欺行為がいたるところに蔓延しており、それは現代社会の歪みが増幅し続けている一つの現象と言えるのです。
真実は自らの心の中にある
同サイトは、木の花ファミリーが危険な場所であるとする根拠として、複数の人々からの証言を得ているとしています。ではその証言をしている複数の人々の人間性がどのようなものであり、実際に木の花ファミリーで何を行ってきたのか、それに対して木の花ファミリーではどのような意志のもとに、その人々に対してどのような対応をしてきたのか、ということについては、一切検証されることがありませんでした。
もしもその奥にある真実が観えてきたならば、被害を受けたと訴えている人々はその当時に立ち返り、その場面がいったいどのようなものであったのかを振り返ることでしょう。そしてまた、そのような一方的で不確かな情報を元にバッシングをしている人々も、自らの行動を振り返らなければならないことになるでしょう。同サイト管理人が、情報を提供した人々の名前を明かさず、実際に検証して真実を明らかにする場を持とうという提案にも乗らない姿勢を取っているのは、真実が明らかになることを恐れているからと考えられます。人は被害妄想的な感情に陥ると、実際に起きた出来事や、その背景にある人の心を、自らの感情に乗せた都合の良い表現に置き換えてしまうものです。だからこそ、冷静にその現場に立ち返り、当事者が立ち合い、真実を検証することが必要なのです。
しかしながらそういった人々は、自らの非を認めたくないがために、真実を検証することを避け、自らの訴えを鵜呑みにしてくれる場へ救いを求めます。そのようなニーズを持つ人々が出会うことで、このような一方的なサイトが成立することになるのです。
多くの人は、自らの立場にとって都合の良いことしか語っていません。しかし事実として、被害を訴える人々の中には、ひどい嘘つきや、自らの都合だけを一方的に主張する人もいました。そういった人々が木の花ファミリーがいかにひどい場所であるかということを故意に誇張して話していることの真実を、明らかにするべきなのです。
サイト管理人たちには、最初から「木の花ファミリーがいかに忌まわしい場所であるかを暴き出したい」という思惑があり、純粋に真実を探求するために証言を収集するのではなく、その思惑に沿って自らの意識レベルで情報を切り取ったり、都合の良い部分をつなぎあわせて、歪んだ木の花ファミリー像を創り上げました。これは、売り上げだけを目的にゴシップを創作する週刊誌と同じ手法です。サイト管理人たちは、通常であれば週刊誌の表現をむしろ批判的に見る立場を取っているにも関わらず、自らの主張と重なるものとなると、週刊誌であっても正しい情報として取り上げる対象とするのです。
そういった姿勢の人々が描く真実とは、現実の木の花ファミリーを描写しているのではなく、その人自身の心の中にある興味や意識レベルを表現しており、自らの恥をさらしているようなものと言えます。その人自身の中に、そのようなレベルの世界があるからこそ、そういった意識レベルのものに共鳴し、実際とはかけ離れた描写を創り上げることができるのです。
言論の自由とは何か
誰もが好き勝手に自らを表現することが許されている現代社会の中で、人々は「言論の自由」を主張します。しかし自由とは本来、真実のもとに、調和の中にあるべきです。
2015年、イスラム教徒を揶揄する風刺画を掲載し続けてきたフランスの週刊誌、シャルリー・エブドの本社が襲撃され、12名の人々が亡くなる事件が起きました。後のテロの連鎖を示唆していたかのようなこの事件は、世界各地で大きな波紋を呼び、フランス国内はもとより日本を含む多くの国で、シャルリー・エブドを支持し、言論の自由を訴える世論が巻き起こりました。しかしそこには、言論の自由を盾に、人の感情を傷付け、逆なでするような行為を行えば、結果としてこのような出来事を受けるという、因果応報とも言うべきもう一方の真実があるのです。
多くの国で、言論の自由は法律によって保障されています。では法律に則っているから正しいのかというと、法律をかざして自らを正義の側に置き、暴力をふるっている場合もあるのです。法律とは、社会にとりあえずの秩序をもたらすために人間が定めたルールです。しかし、世界は常に変化変容し続け、何が正しく、何が間違っているのかは時代と共に変化していきます。また、そこに関わる人の精神状態によっても、やっていいこと、いけないことは変わっていきます。それを感じられる人間になることが大切なのです。
そういった直観力を磨くことを怠り、すべてを一律に裁こうとするのが現代の人々の意識です。しかし、そのような人間のご都合主義的な手法でものごとを裁くには限界があり、結果として真実からはかけ離れた世界がもたらされることになるのです。
誰もが、想いを自由に表現できる世界であるべきです。しかし、自由に表現した結果、そこに真実が表現されているのかは問われなければなりません。その表現の結果、どのような世界がもたらされたのかを検証していく。その時に湧き出てくる真実こそが大切なのであり、思惑に基づいて真実が歪められるようなことはあってはならないのです。
社会正義をかざす人々の責任
私たちは、「木の花ファミリーで起きたこと」が表現していることの一つひとつに対して、その背景にある事実と共に、真実を明らかにする用意がいつでもあります。それをあえてすることなくこれまで来たのは、真実は、私たちのこれからの生き方、そして時代が示してくれるということを、確信しているからでもあります。
このようなことに至る出来事があったことは、事実として私たちも認めています。しかし、その出来事の背景にある流れや、そこに関わる人々の想いを加味することなく出来事だけを切り取れば、それは事実とはまったく異なるものになるということに対して、私たちは懸念を示しています。木の花ファミリーには、暴かれて都合の悪いようなことは何ひとつありません。むしろそういった出来事の奥にあった真実が、広く世の中に広まっていくことを願っています。それに対し、大変な情熱を費やして木の花ファミリーを告発する人々も、真実が世の中に示されることを恐れないのであれば、これまでの木の花ファミリーからの提案や、これから真実が明らかにされていくことに対しても、何ら拒むことはないはずであり、堂々と向き合うべきなのです。
私たちは、社会正義の側に立つ人々から一方的に流される歪んだ情報が、インターネット社会の中で独り歩きしていく世の風潮に対して、強く懸念しています。それは事実の捏造と人権侵害の観点からしても、本来ならば法廷にて検証すべきことですが、木の花ファミリーはこれまで、そのような現代社会の歪んだ手法での表現をあえて控えてきました。しかし、これほどまでの歪みが社会に広がり、それが多くの人を傷付けているという事実を鑑み、改めて、そういったことを行っている人々の責任を問うものとして、本サイト「木の花ファミリーで起きたことを検証する」を立ち上げるに至りました。
このような声明を出すことが、新たな争いの種になることは、私たちの本意とするところではありません。これを読む人々が、インターネットの不確かな情報を鵜呑みにすることなく、自らの目で真実を確かめる行動を取られることを願っています。その時に、真実は自ずと明白になることでしょう。それは、既にここを訪れている多くの人々が証明していることであり、かつこれからも証明し続けられることなのです。その確信があるからこそ、私たちの姿勢は、いつも変わらずあり続けるのです。
自らが自らを裁く
現代は、心の奥に悪意を隠し持っていても、善人の仮面をかぶり正義の味方を演ずることができる時代です。インターネット社会がそのまやかしを許容し、社会規範によってその偽りが守られているとも言えます。けれども、人間には良心があります。社会規範に則り正義をかざしていても、はたしてそれは本当に正義なのか、その奥にどのような心があってそれをやっているのかということは、他ならぬ自分自身が一番よく知っているはずです。そしてそこにこそ、真実があるのです。
誰もが自分自身と向き合い、その奥にどのような心があるのかを明快にして自らを裁くことができれば、その結果として、疑いのない、風通しの良い世の中が訪れます。社会規範ではなく、自らが自らを裁くのです。自らを裸にし、自分自身の中にある歪みや悪意の存在と真に向き合った時、人は初めて、この世界に生まれてきた本当の目的を確信することになります。しかし、自らを閉じて実態と向き合わず、己に都合の良いイメージの中で生きていれば、いつまでも囚われたままとなり、その歪みの中に正義を見いだそうとし続けるのです。
それはまさしく、闇のピークへと向かってきたこれまでの時代を生きる人々の姿でした。しかし2012年12月21日の銀河の冬至を境に時代は闇のピークを越え、光へ向かって進み始めた今、これまで隠されてきたものが世界中で暴き出され始めています。
真実とは、インターネットのようなバーチャルな世界で語られる中にあるのではなく、実際にそれを生きる現場や、そこに反映される人々の人間性の中にあります。バッシングを受けながらも、木の花ファミリーに揺るぎのない調和的な生活があり続けたのは、そこに真実があるからです。
以下に、「木の花ファミリーで起きたこと」の立ち上げ前から現在に至るまでの、同サイト管理人「コミュニティの課題と可能性を考える会」と木の花ファミリーとのやり取りをご紹介します。正義をかざし、自らの行いが社会や人々に何をもたらしているのかを振り返ることのないまま歪んだ情報を発信し続け、都合の悪いことからはフェイドアウトしていく管理人たちの姿勢を通して、私たちは学ぶ必要があるからです。
本サイトをご覧になるすべての皆さまへ
木の花ファミリーは創立以来、常に世のため人のためを願い、歩んできました。それは、一方的な個人の損得を尊重する現代社会の中では、異質なものでもありました。しかしながら、新たな時代の訪れを予感し、そのことの重要性を社会の逆風の中で表現し続けてきたのは、私たちの決意が確信の上にあるからです。
その精神は、今も変わりありません。そしてそのベースにあるのは、常に真実を元にした、嘘のない姿勢です。隠し事や駆け引きがないからこそ、本来ならば外部の人々に共有されるものではないようなことも、包み隠さず共有してきました。毎日の大人ミーティングをすべて公開し、詳細を記した議事録を配信し、木の花ファミリーの日常を撮影したドキュメンタリー映画『確固たる居場所』(「木の花ファミリーで起きたこと」管理人の一人である澤則雄監督の意向により上映中止)では、「そこまで見せるのか」と多くの人々から驚かれるほど、ありのままの姿を見せてきました。それは、日々を切磋琢磨して生きる私たちの生き様そのものを見てもらうことが、世の中が新たな一歩を踏み出すためのきっかけとなれば、と願うからです。これからもその姿勢に変わりはありません。人々が心からつながり、助け合う、偽りのない美しい社会へ向かい、これからも歩み続けていきます。
多くの人は、世の中の嘘が暴き出され、真実が観えると、「なんてひどい」と非難しながら、自分だけはその対象外としています。しかし真実は、あなた自身の心の中にも、同じ種があるのです。「自分は物事がわかっている」「世の中に貢献している」と思っている人ほど、心の奥に、嘘を隠し持っています。そして、今の世の中の矛盾を創る一人となっているのです。
だからこそ、まずは自らの内にある歪みや汚れと向き合うことが、本来人が生きる上で、もっとも大切にするべきことなのではないでしょうか。
以下は、「木の花ファミリーで起きたこと」管理人とのやり取りです。どうぞご覧ください。
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